四万十川を知る
最近、ルー大柴が個人的にキています。
めちゃくちゃ流行りましたよね、ルー語。
最近カタカナ語を聞くとルー大柴が頭の中を駆けていくので、少し困っています。笑
なんでもないワードがパワーをアップして襲ってきますからね、恐ろしい人ですよ。
梅雨入りしましたが、体調などお変わりありませんか?
梅雨が明ければ夏がきて、じきに秋になりますからそれまでの我慢です。
秋になればみなさんお待ちかねの宮本の誕生日がありますからね。
プレゼントは数字が印字されていて、日本銀行券と書かれているような紙が良いですね。
数字は大きければ大きいほど嬉しいです。
と、冗談はこれくらいにして、今回の記事はためになるものを選んでみました。
あ、冗談と言ってもプレゼントの話は大まじめです。
夏を迎えるにあたって良さげな話題。
ええ、そうです、四万十川です!
シマントリバー イズ ビューティフル
日本最後の清流と言われ、その知名度は全国でも指折りです。
四万十市、四万十町などその名前に乗っかって知名度を上げてやろうという市町村もあるほど←怒られそうですが
夏になれば四万十川に観光に来られる方もおられるかと思います。
友達や家族、恋人に披露できるウンチクとして見ていってください。
ただ不思議な名前ですよね、四万十。
全部漢数字
小学校2年生でもう全部書けちゃう。
謎が謎を呼ぶ四万十川の名前の由来から源流点まで、丸裸にしていきますよ!
このブログを読めばアナタも四万十マスター!
日本最後の清流
なんですか、この大仰なネーミング。
日本 最後の 清流
全てのワードに力がありすぎでしょ。
日本最後の清流と言われる理由は単純に水が綺麗だからではありません。
そう思っていた方、清流という言葉に引っ張られすぎです。笑
ご存知の方も多いかと思いますが、本流にダムがないことから日本最後の清流なんていう看板を提げることになっております。
そうです!四万十川にはダムがないのです!
これはダムではありません。
河川法上、ダムとは堤高15m以上の物を言うのです。
したがって、これはダムではありません。
さて、一点の曇りもなく四万十川が日本最後の清流だということが宮本の手によって立証されたところで次は由来についてです。
“四万十”の由来
少し調べてみましたが、定説があるわけではなく、今でもいい年した大人たちの間でバチバチやっているようです。
そんな争いに終止符を打ってやろうと調べ、フィールドワークに向かい、挫折しました。笑
あてにしていた県庁の河川課の友達も異動するし。
普通に無理でした、ブログを書いている自分が四万十マスターになれなかったので、読んでも四万十マスターにはなれません。あしからず。
ただ、弟子が師を超えるのは間々あることです、俺の屍を超えて行け。
もともと四万十川は、『大川』と呼ばれていたとされています。
上流域や中流域では特にそう呼ぶ人が多く、現在でもそう呼ぶ人は少なくないですね。
そんな四万十川、初めて文字として表記されたのが『土佐物語』だそうで。
長宗我部家の興亡を描いている軍記物語なのですが、自分は読んだことがないです。笑
これ調べてみたらふりがなで“ワタリガワ”と書かれています。
どないやねん…
君、実際いつから四万十川って呼ばれた始めたん?の状態です。笑
そんな状態だから四万十川の名前の由来もはっきりしないんですね。
簡単に調べてみただけでも以下の通りありました。
①上流から切り出した木を流し、四万石の木材が十回流せるからという説
②上流の四万川川と中流の十川(あるいは下流の渡川)を合わせて呼んだという説
③アイヌ語に語源があるという説
④多くの支流を持つことからという説
それぞれをけちょんけちょんにけなして詳しくみていきますね!
四万十川の由来は諸説ある
①の上流から切り出した木を流し、四万石の木材が十回流せるからという説
については熊野川の筏師が10万石の木材を10回流したことから十万十川と呼称しているという話に立脚した説です。
四万十川は4万石を10回運ぶから四万十川と呼ばれるようになったと。
現在の熊野川はダム建設によって流量も調節されるようになっているので、当時どれだけの川だったか分かりませんが、四万十川の流域面積や流量を考えるとたった4万石?って思いませんか?
東大寺の大仏殿をつくるのに5万石必要ということなので、4万石でもかなりの量ですが、熊野川はその倍以上の木材を流せたの?大丈夫?見栄張ってない?
というか10回流すってなに?1回流せたら10回も20回も同じじゃないの?
と思ったら、水だけじゃなく山も豊かという意味も込めて10回流せるということらしいです。
これは素直にごめんなさい。すべてに噛みつこうとしたらダメですね。
さすがに和歌山県の熊野川まではいけないので、詳しく調べることはできていませんが…
和歌山の呼び名が高知の西の端まで来るのかという疑問はありますが、無視できない名前の符合ですよね。
江戸時代に熊野川の筏師が十万十川と呼んでいた伝承があるということですが、土佐物語の書かれた年代も江戸時代なんですね。
四万十川から逆輸入的に十万十川と呼ばれるようになった可能性もあるのでは…?
これはニワトリが先か卵が先かの話になるので真偽は分かりません。
そして、十万十川と呼ばれていたという話だけで文献には残ってないようなので、ちょっと鵜呑みにするには注意が必要な気がします。
②上流の四万川と下流の十川(あるいは渡川)を合わせて呼んだ説。
この説には説得力がある気がしますね。
四万川の成り立ちは、上流域にシマガヤが群生していたことからシマガヤという地名となり、四万川と訛り変化したといわれています。
田舎の子供が川で遊んで切り傷をつくって帰ってきたらほとんどコイツの仕業です。
子供のころ、カヤの芯の部分を飛ばす『カヤ鉄砲』で遊んだのを思い出しますね。(上手く飛ばさないと手が傷だらけになるヤバい遊びです)
その四万川を流れる川だから四万川川。
いや、四万川川って
スマトラ島に住むスマトラトラと同じネーミングセンスですね。
そして、十川は現在の『道の駅四万十とおわ』の近くにその地名を残しています。
現在も四万川も十川も地名として存在していますが、なんで四万川川と十川という地名を選んだん?ランダム?支流がたくさんあるならもっと候補はあっただろ!
…なんていうツッコミをしたくなるあたり、信憑性はあまりないのかな~と。
もっとスッと胸に落ちるような説はないのかしら。笑
ちなみに下流域の渡川から“四万渡川”になり、簡略化した四万十川に表記が変化したという説ですが、これは宮本は断固認めません。
こんな重箱読み、神様仏様が許しても、宮本が許しません!!
というかウィキペディアの四万十川の項目を編集したの誰ですか?
四万渡川から渡川という呼び方が発生したなんて完全に誤った情報ですよ!
③アイヌ語に語源があるという説
この説は個人的に推したいですね。
アイヌ語のシ・マムタ(=とても美しい)という言葉からきているという説。(あるいは、シマム・トー(=西の大川)というのもあるようです。)
夏目漱石の門下生としても名前が通っている高知出身の寺田寅彦の唱えた説です。
これは北の地アイヌと南国土佐のつながりというロマンが先行して有名になった説なのですが、なかなか悪くない線だと個人的には思っています。
というのも、アイヌ語は起源の分からない言語であり、文字が存在せず、音のみの言語である点から地名として定着するためには間違いなく当て字になるんですよ。
音のみの言語だからこそ土佐物語が書かれる時代まで文字表記として存在しなかった可能性もわずかながらありますね。
そして、同氏の研究では四国には他にもアイヌ語とも読める地名が点在しているということもその説得力を増しています。
いやいや、アイヌって北海道でしょ?絶対ありえないわ。と思っている方もおられるかと思います。
実際、アイヌ語研究者も同じような態度でいるようです。笑
ただアイヌ語と同じく日本語も起源のわからない言語なのです。
アイヌ語でなくとも同系統の古い言葉がルーツっぽくないですか?
事実、幡多地域で使われる「~しちょる・~しちょう」という言葉、響きとして古い時代の匂いがしませんか?
日本語でありながら過去完了形や過去進行形、現在完了形を言い表すことのできる幡多の方言。
実に古文的要素が色濃く残っていると思いませんか?思いますよね?自分もそう思います。← 訳者の違う源氏物語を何度も読み、原文も読むほど古文が大好物の宮本が言うのですから、これは間違いないでしょう。笑
※ちなみに、源氏物語は与謝野晶子、瀬戸内寂聴、谷崎潤一郎、円地文子、そして田辺聖子の訳文を読みましたが、円地文子先生が個人的には最もお勧めです。笑
話を戻して、幡多弁には「ざまに」や「ずつない」など言葉の響きが古い物が多いです。
アイヌ語といわずとも古い言葉の名残を受けているのではないかというのもあって自分にはこの説がしっくりきます。
…もちろんそうであってほしいという気持ちが過分に含まれている点は否定しません。笑
④多くの支流を持つことからという説
多くの支流を持つ四万十川。
良いですね、4万と10の支流から流れ込む河川で四万十川。
4万と10という数字は何かの掛詞になっているのでしょうか。
シャレのセンスがないのか自分にはどこから来た数字なのか見当がつかない。
調べても納得できない。
ということで、分からないものはナシの方向でいきましょう。笑
ここで余談を一つ
さて、名前の由来がアイヌ語、あるいは日本古語であってほしいという宮本の希望も伝わったところで調べているうちに分かった面白い話を一つ。
三途の川のことを古くは『渡り川』と呼ぶこともあったのをご存知ですか?
黄泉の国に渡る川ですからね。
古今和歌集に小野篁(おののたかむら)の詠んだ歌があります。
泣く涙 雨と降らなむ 渡り川 水まさりなば 帰りくるがに
(この涙が三途の川に雨となって降ったならば、川の水が増水して愛しい人も渡るのをやめて帰ってくるのだろうに)
なにこの悲しい歌。
ディスプレイが滲んじゃう。
というか「帰りくるがに」ってもうほとんど幡多弁ですやん。
小野篁って百人一首でも悲しい歌を詠んでたよね。悲劇の人?
ってツッコミどころ多いわ!!笑
という話もあるので、四万十市の渡川は三途の川という意味を持たせてつけられているかもしれないですね。
三途の川はその名の通り、渡るために3つの途(みち)がある川です。
善人は金銀七宝で飾られた橋を渡り、罪の軽いものは浅水瀬(せんすいせ)という膝元ほどの水位を渡り、罪の重いものは強深瀬(ごうしんせ)と呼ばれる矢のように流れが早く、波は山のように高い所を渡る。
残念ながら室町時代に善人の渡る橋は流されてしまったようで、現在は定期便が運航しているようです。笑
その渡し賃は6文らしいです。
今なら300円程度。
安~い。
持ってない人はおとなしく泳いで渡りましょうね。
お金を貯めているご老人方に「死後の世界にお金は持っていけないんだから」とよく言われますが、そんなことないですね。
6文銭を棺に入れる風習を考えると、札束と一緒に燃やしてもらえば 三途の川までは間違いなく持ち出しできますよね。
※現在は金属を遺体と一緒に焼くことは禁止されているので、実際の6文銭ではなく、印刷された紙を入れています。
ただ渡し賃は6文なので何億円持って行こうと意味はないようです。やはりご老人方は死ぬまでに使い切ってください。
現在の大河ドラマでも描かれている西郷ドンの有名な言葉、「児孫のために美田を買わず」の精神です。
同じく大河ドラマで話題だった真田丸の真田家の家紋が6文銭の理由もそれですよね。
死地に赴く以上、いつ殉職してもいい覚悟で。
これぞ男気!…と言いたいところですが、死後にちゃんと船に乗ろうとするあたり、ちょっと可愛い。
ただその覚悟が表れた家紋ですから、家臣たちはさぞ気合は入ったでしょうね。
ちなみに、重罪人が渡る強深瀬は山のように高い波の中には毒蛇がいて食われたり、流れてくる大きな岩に打ち砕かれたりと悪人とはいえ可哀そうになる有り様。
いや、もうそれ川の中やん…と思いきや、まだ川の中じゃないんですね。
その苦しみから逃れようと川の中に逃げ込めば大蛇に食われるんですって。笑
罪に対する罰の重さが罪刑法定主義に反するようですが、死後の世界には死後の世界の法律があるんですかね。
襲い来る洪水を恐れ、敵わないものとして表現したものを宮本は他にも心当たりがあります。
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説です。
このことから暴れ川=大蛇と捉えることがありうるのではないかと思うのです。
高知県は山地率が89%もあり(当時はそれ以上?)、さらに台風の通り道にもなるため、洪水被害の多さは他府県の比ではなかったかと推察されます。
その時の四万十川の荒れ具合、まさに暴れ川のようであっただろうと。
京都は当時の都で、治水もある程度されていたでしょうから、京都から来た一条教房から見ると四万十川はまさしく大蛇!三途の川!と思ったのかもしれないですよね。
じゃあ、渡川はいつからそう呼ばれているの?
大反響だった(?) 須賀神社についてのブログ でもあったように、一条教房は故郷である京都を模して四万十市の街づくりを行いました。
土佐一条氏の時代に四万十川が『渡川』と呼ばれていたのは、豊臣秀吉の太閤検地の前に長宗我部元親の記した文献(長宗我部地検帳)に残されているので間違いないです。
そして、旧町内から渡川の西岸(具同や中筋)へと流される『渡川限り』という罪名が明治初頭まであったとの資料も見つけました。
その頃はまだ上流域や中流域では主に『大川』と呼ばれていたのに、下流域に関してはすでに『渡川』と呼び方が固まっていたのは、京都から来た一条教房が四万十川を渡川と呼び始め、渡川限りしてたんじゃない?と思いません?
天災や疫病を怨霊や失政によるものだとしてとらえていた当時の日本、その中心であった京都から来た土佐一条氏からすれば、これは自然な発想ではないかと思うのです。
まあ、あくまで宮本の推測の域を出ないので、専門で研究されている方からはお叱りを受けるかもしれませんが。
その渡川を渡った向こうにある川を向川(現在の中筋川)、後ろにある川を後川と呼んでいたと考えると色々納得できるのですが、どうなんでしょうね。
四万十川と渡川、それぞれの由来がぼんやりと見えてきたところで最後、源流行きますか。
四万十川の源流点
津野町の不入山(いらずやま)を源流点として、高知県西部をあっちに行ったりこっちに行ったりしながら悠々と流れる四万十川。
寄り道しながら家に帰る小学生みたい。
その長さは196km。
前言撤回です、小学生はそんな盛大な寄り道はしませんね。
196kmがどれくらいの距離か分かりやすく言うと…
東京駅から直線距離で福島県の会津若松まで。
大阪駅から直線距離で広島県の福山まで。
あ、そして琵琶湖一周とほとんど同じですね。←分かりやすい?笑
そんな距離を流れてきて海に流れ込む水たち。
擬人化すれば1本、面白い映画が出来るんじゃないでしょうか。
支流から合流してきた新入りにでかい顔をする本流の水。
実は支流から来た新入りは、本流から一度支流に別れた水が本流に戻っただけだった!
水は巡回するものだから序列なんてないんだよ、皆平等だよというストーリー。
このアイデアで映画をつくる方、宮本までご連絡を。
取り分の相談をしましょう。
ごめんなさい、話が脱線しました。
そんな不入山へフィールドワークへ向かいました。
もちろん、友達がね!!!
土佐藩の頃、御留山として一般の立ち入りを禁止して保護していたため、自然豊かで秘境感満載!(だったそうです)
立ち入れない山だから、不入山(いらずやま)と名前が付いたとの説が有力(だそうです)
そんな山なら登るのはさぞキツかろうと思うでしょ?それがほとんどの行程を車で行けちゃう(と聞きました)
自然の壮大さを感じさせる木々。岩を覆う青々とした苔も自然の絨毯として飾り立ててくれています(写真を見た感じ)
山紫水明や風光明媚など自然の美しさを表す言葉はそれこそ山のようにありますが、実際にこの自然を目の前にすると、どの言葉も及びません(と言っていました)
百聞は一見にしかず、実際に見に行くと大自然に圧倒されて言葉をなくします(との報告でした)
さあ、この記事を読んで、写真を見て興味を持った方もいると思います。
宮本ももう行く気満々、有給使う気満々です。
写真からもうマイナスイオン出てますもん。
そっちにも届いてます?マイナスイオン。
これは是非自分の目で、耳で、肌で五感全てをフルに使って感じてみたいですよね。
ちなみに専務も若いころに行ったことがあるようで、めちゃめちゃいいところ!!と太鼓判を押していました。
とにかくお金がなくてカツカツで行った当時であんなに良いと思えたなら、今行くともっと良く感じるのかな~と遠い目をする専務。
より行きたい気持ちが高まってきました。
ブログを書くために行きますって言えば出張費用でるかな?笑
実際に行ったかどうかは宮本のインスタグラムをチェックしてみてください。(フォロー大歓迎です)
もし行っていれば、腰抜かすほどいい写真を撮ってきてますので!!
最後に
夕陽ヶ丘ハイツの前にあるこの公園、その名も
夕陽の見える丘公園
これで夕陽が綺麗に見えなきゃ嘘ですよね。笑
※夕陽を撮りに行くのがめんどくさかったから目の前のそれっぽい写真で済ました訳では決してありません。
こちらは後川沿い。
四万十川の支流だけあって、この堤防の風景もなかなかのものです。
後川を渡った先は安並。
宮本のおすすめスポットは水車とあじさいですね。
以上、バルコニーや共用部分から川を望める物件を紹介しましたが、他にもたくさん賃貸物件をご紹介出来ます。
いや、川沿いでなくともちょっと歩けばすぐに四万十川にたどり着ける物件ばかり。
どの物件に住んでも自然を堪能できるのが四万十市の良いところなんでしょうね。
賃貸物件を探す際(特に移住の場合)、環境を気にされる方も多くおられます。
物件の良し悪しだけじゃない四万十の物件探し。
納得いくまでご相談にのりますよ!
四万十川についての雑談も是非しましょう!
宮本おすすめの賃貸物件を見てあげてもいいかなぁ、と思ったらぜひご覧ください、何卒よろしくお願いいたします。
ヤマモト地所の公式Twitterが出来ました。
— 有限会社ヤマモト地所 (@yamamototisho) 2018年6月12日
四万十市で住まい探しをするなら是非ヤマモト地所へ!!
これからどんどん物件情報・土地情報などツイートしますね♪
社員一人一人のご紹介もいつか出来たらなぁなんて思ってます(*´ω`*)#四万十市 #不動産 #ヤマモト地所 #賃貸 #売買 pic.twitter.com/JgEsaTQOhg
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