ひっそりと赤鉄橋のそばに佇む須賀神社
みなさん、こんにちは!こんばんは!
宮本のブログの時間です。笑
今回は中村側の赤鉄橋のそばにある須賀神社について紹介したいと思います。
案内のときになぜかよく聞かれる「この神社ってなんですか?」
何度か聞かれたので答えられないのが悔しくて悔しくて…
仕方ない、調べるか…と重い腰を上げて調べてみました。笑
実際、なんとなく気になっている方も実は多いんじゃないかと思います。
意外と気になる近所の寺社仏閣。
日本史が絡むので受験生も必見ですよ!!!
神社の話に入る前に
みなさんは土佐一条氏をご存じですか?
四万十市に住んでいる方なら詳しく知らなくとも聞いたことはあると思います。
四万十市が【土佐の小京都】と呼ばれているのは、土佐一条氏が故郷である京都を模して街づくりをしたため、そう呼ばれるようになりました。
ただ模したのではなく、北東西の三方向を山に囲まれていて南がひらけている盆地。
四万十市の町を流れる2本の川は、四万十川=桂川、後川=鴨川と京都を流れる川とも位置関係がとても似ています。
そして、東側の山には石見寺が鎮座していますが、これは京都の比叡山延暦寺と立地的条件が同じ。
環境も似てるなんて偶然の一致!
…というわけじゃなく、似ているからこそ京都を模したのでしょうね。
さらに、四万十市の街には京都の地名が残っているところがたくさんあります。
例えば、【逢坂】。
京都では滋賀県との境にありますが、四万十市では黒潮町との境にあります。
逢坂トンネルは古津賀にあり、四万十市から黒潮町に抜けるときにくぐるトンネルですが、
「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
(訳:京都に来る人も離れる人も、知り合いも知らない人もここを通り、すれ違うから逢う坂というんだね!)
百人一首の蝉丸の和歌を思い出して、このトンネルもまさにその通りやな~と通るたびに思います。笑
今回調べた須賀神社以外にも不破八幡宮や一条神社など、土佐一条氏が京都から勧請した神社仏閣がたくさんあります。
こんなに完璧に京都を模して街づくりをした土佐一条氏、すごいですね~。
土佐一条氏の誕生は?
有名な話でもあり、詳しい方も多いと思いますので、ざっくりと説明しましょう。
その起源をたどれば、京都で隆盛を誇った藤原氏。
古くは飛鳥時代、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に始まります。
学校で歴史を学ぶ際にまず覚えたであろう【大化の改新】に始まる中臣鎌足の功績により、鎌足の死後にその息子である不比等(ふひと)が藤原姓を天智天皇より賜ったと言われています。
(今の子供は大化の改新は645年って習わないんですね!調べてびっくりしました。笑)
天皇より姓を賜るなんてとんでもない栄誉です。
その後ろ盾もあり、平安時代の中頃には政権のトップに立ち、長らく藤原の時代になります。
藤原の時代というのも、その頃は朝廷に使える公家のほとんどが藤原さんです。笑
(覚えるのに苦労しましたよね…自分も学生時代はまた藤原かよ!と思っていました。)
当時の藤原家の勢いを表わす和歌があります。
「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
藤原道長の詠んだこの和歌を簡単に訳すと
「満月ってどこも欠けてないよね!今の俺の権力と一緒じゃん!」
となります。笑
藤原氏は歌を詠むのにも長けた一族だったと言われています。
※ここには【和歌は貴族の嗜み】×【貴族には藤原だらけ】=【藤原氏は和歌が得意】という三段論法が隠れています。笑
あの小倉百人一首の撰者も藤原定家という人です。
この人、天皇から名歌をまとめるように言われた勅撰和歌集の撰者にも選ばれる程の実力者です。
…和歌が大好きな宮本としてはこのまま藤原定家や百人一首の話を広げたいのをグッと我慢して話を戻します。
(反響があれば、百人一首についてや平安の恋歌についてなどいつかやりたいですね。笑)
当時の朝廷を我が物として表現できるところも、それが欠けていないと言えるところも藤原氏の勢いを如実に表していますね。
さて、その藤原さんがたくさん闊歩する朝廷で「ちょっと、藤原さん?」なんて呼びかけようものなら何人が振り向くでしょうか。笑
そのため、一条に住んでいる藤原さんは一条家、九条に住んでいる藤原さんは九条家、鷹司に住んでいる藤原さんは鷹司家と呼び分けるようになりました。
もうお気づきだと思いますが、土佐一条氏はそこがルーツになります。
応仁の乱の戦火を逃れるため、荘園のあった四万十市に下向したことで土佐に拠点を置き、栄えたのが土佐一条氏です。
土佐一条氏と神様
その土佐一条氏の家紋は一条藤です。
そして、藤原氏の氏神である春日神が祀られている春日大社の神紋も下がり藤です。
※氏神(うじがみ)とは氏一族があって、その一族を守護する神のことをいい、藤原氏では奈良県にある春日大社です。
家紋からそのルーツが確かに感じられると思います。
春日大社は藤原さんをはじめ、伊藤さんや加藤さんなど【藤】が付く方は春日大社には是非参拝したいところですね。
春日神と呼ばれる4柱は以下の通りです。
・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
・経津主命(ふつぬしのみこと)
・天児屋根命(あめのこやねのみこと)
・比売神(ひめがみ)
…ここを掘り下げると長くなりすぎるのと本旨から逸脱するので割愛します。笑
気になる方はググってください♪笑
余談ですが、その1柱である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が茨城県にある鹿島神宮から勧請された際に、白鹿に乗って来られたとされていることから、春日大社の神使は鹿です。
眼下の奈良公園にはたくさんの鹿がいますが、めちゃくちゃ怖いです。
あいつら、完全に野生の目をしています。
学生時代に何度か奈良公園に行ったことがあるのですが、奈良の友人が「人より鹿が多い。」と冗談を言っていましたが、実は事実なのでは…?と思ってしまうほどたくさんいます。笑
一族を守る氏神に対して、土(すな)を産み出す神、つまり大地を始め万物を産み出す神として産土神(うぶすながみ)がいます。
産土神は日本に限らず大地があれば地球のどこにでもおられる神様という考え方なので、より広範な人に対する利益があるようです。
この産土神がその土地を守ってくれるので、ひいてはその土地の動物や植物、そして、その土地に住む人間の生活全般に関わる働きをしているのです。
さて、この氏神様ですが、年月が経つにつれて産土神社の働きを兼ねるようになります。
というのも、鎮座し、たくさんの信仰を受けることで、特定の一族の守護神という立場からさらに進んで、その土地およびその土地に住む人々を守護する産土神の立場にグレードアップするのです。
また、定住して30年間、その土地の産土神社に奉仕すると、産土神はその人の氏神という立場になってくださることがあります。
「引っ越ししたら氏神様に挨拶しなさい。」とよく言われる所以はここにあるんですね。
日本人の不思議な(柔軟な)宗教観は、さまざまな争いがありながらも古来からの神々(八百万の神)と伝来した仏教神とを喧嘩させずに融合させる神仏習合(しんぶつしゅうごう)や本地垂迹(ほんじすいじゃく)という流れになりますが、そもそもベースとして近所の神様にお世話になるという考え方があったのだと想像できます。
特に気にせずにされていることですが、結婚式は神道の作法なのに、お葬式は仏教の作法が主流だったり、普段はお参りしないのに受験のときや出産、就職、あるいは初詣などでは神社やお寺に向かうという良いとこ取りな信仰の仕方はこういった歴史のためなんですね~。
やっと本題です。
ここからやっと須賀神社についてです。笑
…の前に少しだけ先ほど出てきた春日大社について。(ちゃんと関係しているので!)
春日神社のご神木は梛(なぎ)の木なのですが、この木が結構すごいんです。
葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったそうです。
その昔、女性が鏡の裏側に梛の葉を入れ、夫婦の縁が切れないようにと願う風習があったり、源頼朝が北条政子と梛の木の下で逢瀬を重ね結ばれたと伝わるなど、梛が縁結びの木といわれる所以は数多くあります。
男女の縁だけでなく、大切な人との縁を結ぶという意味で商売繁盛のご利益を授けてくれるとも言われています。
さらに、裏返しても見た目があまり変わらないことから「裏表のない夫婦生活」という利益もあるとかないとか。笑
葉っぱの裏表が分からないなんてそんなわけあるか!!
と思って須賀神社の境内の梛の木の葉を撮ってきました。
いや、ほんと疑ってすみませんでした。笑
また、呼び名が凪(なぎ)に通じることから海上安全のお守りともされています。
海上安全以外にも、すべての苦難を“なぎ払う”とされ、様々な災厄除けのお守りとして今も大切にされている木なのです。
梛の木、ご利益の塊じゃん!
そして、なにより
鹿は梛の葉を食べられない。
奈良公園の鹿!!!
梛の木と共生してるやん!!
梛の木が春日大社のご神木になっている理由の一つに、鹿による被害がないという非常に合理的な理由がありそうです。笑
その梛の木は春日大社が土佐一条氏の所縁あるところということから神社仏閣の境内はもちろん、なんと、四万十市内の街路樹にも使われています。
(ご利益があるからといって木が丸坊主になるほど葉を取ったらダメですよ!笑)
最初に述べたように四万十市の神社は多くが京都より勧請されたものです。
須賀神社も土佐一条氏が京都の八坂神社から勧請したと言われています。
須賀神社は、牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を御祭神とする祇園信仰の神社であり、他地域の須賀神社と同じく、四万十市の須賀神社も明治時代まで【牛頭天王社】と称していましたが、神仏分離令により祇園社に変わり、神仏分離令に始まる【廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)】という日本史史上最大の汚点といわれる行いによって仏教用語である【祇園】という名前も取り上げられ、現在の名前である須賀神社となりました。
御祭神は、百笑など周辺の産土神とともに、
神速須佐之男命(かむはやすさのおのみこと)
櫛稲田媛命(くしなだひめのみこと)
そして、大海津見命(わだつみのみこと)が祀られています。
(大海津見命は一緒になっている海津見神社の神様です。)
御祭神を見ると八坂神社から勧請したという説は正しそうですね。
さらに境内には恵美寿神社と火産霊(ほむすび)神社も合祭されています。
火産霊は別名をカグツチといい、伊邪那岐神(イザナギ)によって首を切られたのですが、
その剣先から滴る血から武甕槌命が生まれたとされています。
武甕槌命といえば、春日大社に祀られている藤原氏の氏神様でしたよね。
この符合にもなにか意味があるように思えます。
まとめ
どうでしょうか?
調べてみると規模としては小さな社ですが、しっかりしたバックボーンがある神社でした。
こういう情報を知って参拝するのと、なんとなく参拝するのではご利益が違ってくるような気がしますね。
(神様は平等なので、おそらく実際はそんなことはありません。笑)
知らなかったことが知れて、自分自身もすっきりしました。
須賀神社について調べてみると、寺社仏閣というのはその土地の起源とも密接な関係があるので、結果的に四万十市についても詳しくなれて実りあるブログでした♪
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